1月ベラルーシ戦線では前線のベラルーシ軍の継続的な疲弊によって士気の低下を招き、度重なる後退は政権への支持も低下した。
第一次ミンスクの戦い?に敗北し18日に首都ミンスクが陥落すると、ベラルーシ軍の指揮系統は完全に崩壊した。陥落後の21日ソビエトロシアはベラルーシに共産党員を送り込んでクーデターを起こし政権を奪取。
ミンスククーデター?は成功し、
白ロシア社会主義ソビエト共和国?が成立した。ベラルーシでは形式上復員令が出されたが前線の兵士は復員できなかった。しかし戦略的に重要なベラルーシが寝返り、ヴィリニュス付近の戦線に大きな穴が空いてしまった。
2月5日に起きたヴィリニュスの戦いではヴィリニュスに突出した赤軍をバルト軍が包囲したが、消耗していたバルト軍は赤軍の勢いに負けて敗走した。リトアニアでの失敗は同盟国の威信を揺るがすのに充分でソビエトはベラルーシと同じ方法でリトアニアに政権を建てた。
北部方面で赤軍が優勢に戦争を進める中、南部では南ブーフ川で停滞していた。キエフの戦い以降は1919年から白軍追討のためカフカスに派遣されていた
ヨシフ・スターリン?が南部方面を担当することになった。レーニンは東方戦争について、『ある程度の戦果があればポーランドの労働者はピウスツキに反抗する』とポーランド首都ワルシャワを陥落させることを目標としスターリンにもトゥハチェフスキー率いる北部部隊に合流しポーランドを総攻撃せよと命令したが、スターリンはポーランドの労働者はナショナリズムを優先して革命を行う意思がない、とレーニンに反対してあくまでも戦略上重要なリヴィウの占領を目指した。
スターリンは冬が終わる前にウクライナ全土を掌握する必要があると考え、2月19日から
スターリン攻勢?と呼ばれる大規模攻撃を開始した。ニコラーエフ方面部隊は南ブーフ川を渡河して26日にオデッサに到達した。スターリンは現地の
オデッサ・ソビエト?をロシアに取り込もうとしたがオデッサ・ソビエトが
モルダヴィア社会主義共和国?と
トランスニストリア?を巡って對立してることから、モルダヴィアに配慮して統合を先送りにした。しかしスターリンの判断はレーニンのオデッサ併合の指示によってかき消され、トランスニストリアを巡ってロシアはモルダヴィアと対立することとなった。
一方でスターリンの北部部隊はウクライナの臨時首都ジトーミルの占領に時間をかけていた。ポーランド軍8000人が籠城するジトーミルを陥落させることができたのは南部部隊と合流後の3月15日のことである。赤軍はジトーミルを占領したがラーダの残党は降伏することなく包囲をかいくぐって最西部リヴィウに撤退した。スターリン攻勢の目的としては冬が終わる前にリヴィウを占領する計画だったが、同盟軍の遅滞戦術も相まって4月14日になってようやくリヴィウに到達しており、速やかなウクライナの制圧という点では作戦は失敗したと言える。いずれにせよ同盟軍は戦術上の敗北はあれどおおよその兵力を保って後方に撤退することができた。
一方でトゥハチェフスキー率いる北部方面軍はヴィリニュス占領後、カウナスではなくポーランド首都ワルシャワを目指した。レーニンはポーランド中枢への攻撃を命令したがトゥハチェフスキーはバルト軍の無力化しないことには後方が危険に晒されると考え、分隊して
アレクサンドル・エゴロフ?に北部を任せた。トゥハチェフスキーの判断は軍事的には正しい判断と言えるが、中央の命令に背くことはレーニンに不信感を抱かせ、かつワルシャワ方面の戦力分散によってポーランド早期降伏の道は絶たれた。
同盟軍としてはヴィリニュスでの失敗以降、リトアニアでの分断によってバルト地方を完全に失うことを危惧し、スヴァウキ回廊と呼ばれるこの地域に少なくない兵力を割いた。しかし前線が後退する中で同地から戦力を引き抜くにつれ防衛戦は厳しくなった。4月には前線から撤退したポーランド軍の一部がドイツ領内に誤進入した後にドイツに発砲される
ゴルタプ事件?が発生するとドイツとオーストリアの対立は明確なものとなったが、全面戦争は避けられた。
4月4日、エゴロフの軍はラトビア東南部のレゼクネへの攻撃を開始した。兵力差は依然として赤軍が有利だが激しい市街戦の後バルト軍主力部隊がレゼクネに合流すると赤軍は劣勢となり16日に撤退した。レゼクネの戦い以降、赤軍はバルト方面で影響力を失い形勢は逆転しつつあった。
トゥハチェフスキーの本軍は5月2日にワルシャワに迫りヴィスワ川に到達した。ポーランド軍は多大な戦力をワルシャワ防衛に注ぎ込みこれを追い返そうとした。ワルシャワの戦いは互いに大きな損害を被る激戦となりヴィスワ川は赤く血塗られたと言われている。
一方でウクライナ西部最大の都市リヴィウではポーランド・ウクライナ連合軍とスターリンの部隊が4月16日から接敵し、リヴィウを攻囲した赤軍が優勢に戦局を進めるが連合軍の激しい抵抗に合い、8月頃にスターリンの部隊は撤退せざるをえなかった。また北部でも8月になってバルト方面で完全に形勢が逆転してエゴロフがミンスクまで撤退すると、トゥハチェフスキーの本軍は包囲される危険に晒され、8月15日にワルシャワから撤退した。
レゼクネの戦い?、
リヴィウ攻囲戦?、
ワルシャワの戦い?で敗北した赤軍は既に全戦線で劣勢に立たされ、敗戦は決定的でありモスクワの陥落さえ現実視された。
レーニンは度重なる敗北に頭を悩ませ、スターリンを政治局に戻すと南部軍に
セミョーン・ブジョーンヌイ?、エゴロフを更迭して代わりに
ウラジミール・サラマノヴィチ・ラザレヴィチ?を配置した。9月頃から赤軍は方針転換して徹底的な遅滞戦術に努めた。勢いや戦略の面では同盟軍が優勢ではあるが、依然として兵力差は保たれており冬を待っての再侵攻を計画した。
ポーランド軍は9月15日にブレストで赤軍に中規模な反撃を受けた。レーニンら首脳部は勢いではポーランド軍に劣るものの兵力差が多少なりとも存在し、なおかつ市街戦が予想されるブレストでポーランド軍を追い返すことはできなくとも、ある程度足止めが可能と考えていた。赤軍はブレストに防衛網を構築して強固な陣を敷いていた。しかし
ヴワディスワフ・シコルスキ?が率いるポーランド第5軍は迅速な機動戦を展開し、ブレストの赤軍を包囲殲滅した。ブレストは首脳部の予想に反して数日で突破され、赤軍の防衛戦略は瓦解した。
ブレストの戦い?で敗北を喫した赤軍には、有効な組織的反抗をする力が無くなり、また中央アジアの
バスマチ運動?を中心としてメンシェヴィキら対抗組織が勢力を立て直しつつあった。スターリンはレーニンに早期講和を直談判したがレーニンは未だ、ロシアの冬将軍によってポーランド軍を撃退できると希望的観測を行っていた。
ゲオルギー・チチェーリン?外務大臣はレーニンの命令に背いて秘密裏に休戦交渉を開始した。しかし中立国スウェーデンを介した休戦交渉は一筋縄にはいかなかった。
チチェーリンの休戦交渉虚しく同盟軍は次々とロシア領土に侵攻して諸都市を陥落させた。10月12日に
第二次ミンスクの戦い?でミンスクが陥落すると、レーニンはついに
外務人民委員?に休戦意思を通達した。しかし重要都市が陥落し、かつ軍事的優位を保持できていないソビエト側に猶予はなく、同盟側はプスコフ州、ペトログラード、スモレンスク州、ヴォルゴグラード州の割譲を要求した。赤軍は講和以前に停戦を要求したがオーストリアは一旦の停戦には最低でもスモレンスク州・ノヴォロシアへの駐屯が必要と通達した。レーニンは苦渋の決断で10月25日、
ナルバ停戦協定?に署名した。
一方同盟側もある複雑な問題を抱えていた。ヴィニュスを巡って起きた
バルト連合王国と
ポーランド王国の領土問題は、ポーランドの覇権主義的野心とオーストリアの秩序の対立に発展した。ソビエト外務人民委員は両者の対立を利用して、ポーランドと単独講和することに成功した。いわゆる11月16日
リトヴィノフ=ルボミルスキ協定]がボリシェヴィキとポーランド摂政王国の間で締結された。奇跡的な外交革命は東欧諸国の結束を揺るがせた。ポーランドの唐突な戦線放棄に同盟側は充分に対処できず、オーストリアはソビエトと講和せざるをえなかった。
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