第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

史実
ポーランド総軍事政府
国旗最大領土

薄緑色
?1915年1917年?
基礎情報
国名ポーランド総軍事政府
最後の総督カール・クク?
成立1915年9月1日
解散1917年1月14日
首都リガ
前身ポーランド議会王国
後継ポーランド臨時国家評議会?
 ルブリン総督府第一次世界大戦開戦後の1915年、オーストリア=ハンガリー帝国?が占領地であるポーランド南部に設立した軍政機関である。

経過

 第一次世界大戦開戦直後、貧弱な二重帝国軍は迅速かつ大規模に動員されたロシア軍に対し連戦連敗となり、1914年9月までのガリツィアの戦い?によってカルパティア山脈の外側160kmを喪失した。この攻防によって東部戦線に配備されたオーストリア軍の45%にあたる40万人の兵力を失った。だがガリツィアでの勝利にも関わらずロシア軍は、配置転換されたパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリヒ・ルーデンドルフ参謀長率いるドイツ第8軍によって大敗した。このタンネンベルクの戦い?でロシア軍は15万人近くの損害を出した。また、それに続くマズーリ攻勢でもドイツ軍は相次いで勝利を重ねてロシア軍の戦闘能力は崩壊したかに思われた。

 しかしロシア軍は継続的な動員によって再び戦線を維持することに成功し、夏が明けてから再度ドイツ領へ侵攻を試みた。結果としてプシェムィシル包囲戦?が9月から始まり、ヴィスワ川の戦い?では10月31日までにロシア軍の勝利に終わった。ロシア軍の被害は15万人を越えて同盟軍よりも大きな損失に変わりなかったが圧倒的な兵力によってヴィスワ川の渡河に成功し、数カ月間のドイツ軍の戦争能力を破壊した。プシェムィシル包囲戦は1915年3月に守備隊の降伏によって終結した。

 二重帝国軍は以上の戦役で戦線の維持が不可能な程の損失を被ったが、ドイツ軍の活躍によって東部戦線は一進一退の攻防となった。だが1915年5月から7月にかけて行われたゴルリッツ=タルヌフ攻勢?によってロシア軍の前線は大きく後退し、百年に及ぶロシアによるポーランド支配は終結した。ドイツはこの攻勢によって東部戦線での確実的な優勢を掴んだが皇帝ニコライ2世が停戦交渉のテーブルに着くことはなかった。

 1915年の一連の攻勢によってオーストリアは占領したポーランド南部に軍直属の管理政府を樹立した。10月、ルブリンに総督府が置かれたことからルブリン総督府あるいはオーストリア総督府と呼ばれるようになる。初代総督にはガリツィア・ロドメリア王国?の知事を勤めたエーリッヒ・フォン・ディラー?大将が就任した。

 1916年5月フランツ・ヨーゼフ1世?が崩御すると、跡を継いだカール1世?は、脆弱で不規律な統治政策を理由にディラー総督を解任し、後任にはカール・クク?砲兵大将を指名した。

 1916年11月勅令?の発布に伴いルブリン総督府は解体され、同時期にワルシャワを中心に樹立されていたワルシャワ総督府と共にポーランド王国に継承されることとなった。勅令はワルシャワ王宮においてクク総督とワルシャワ総督ベーゼラーによって読み上げられた。行政権は統合され、ワルシャワのセイムへと移った。

 勅令発布後もポーランド国家独立の準備機関として残ったが、クク総督は1917年4月にカール1世の不評を買って解任され、そのまま総督は空位となった。なおクク総督はそのまま軍を退役し、議員に転向した。

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