第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。


リガ会議で決定された領土変更
黒:新国境
黄:旧国境
赤:会談終了時の東方戦争の前線

リガ会議は1918年12月28日から1月20日までクールラント・ゼムガレン公国?のリガで開かれた東欧の領土再考会議である。

概要

リガ会議の開催は東方戦争中であったが参戦諸国の協調性などに問題があり、早急な解決が望まれたため開催された。またオーストリア領であったガリツィア=ロドメリア王国の領土問題の解決なども決められた。会議はポーランドが発案したがベラルーシの反発で滞っていた。だが中央同盟国に対し支援を行っていたオーストリアの仲介によって開かれた。

背景

ブレスト=リトフスク条約で東欧諸国はロシアからの独立を果たしたが、ドイツが一方的に引いた国境線は当時諸国としてはあまり納得のいくものではなかった。ビルニュスの編入を求めたポーランドはリトアニアと緊張関係におちいり、同地域の統治権をめぐって二国は烈しく対立した。東欧の盟主オーストリアは、ビルニュス問題やその他の領土紛争に関して解決しようと試みた。

経過

会議で議題とされたのは主に4つの紛争である
  • ビルニュスの帰属問題
リトアニアとポーランドの国境に位置するビルニュスはブレスト=リトフスク条約によって白ロシア領とされた。現地住民のほとんどはポーランド系が占め、次いでリトアニア人が多かった。この問題においてポーランドは一切の譲歩を辞さず、ビルニュスなくしてポーランドなしというピウスツキ全権大使の言葉はポーランドのヤギェヴォ理念復興の夢への熱情を物語っていた。しかし議長国オーストリアは東欧で力を増すポーランドのさらなる影響力拡大を懸念しており、なんとかしてこの要求を却下しなければならなかった。
  • ガリツィア=ロドメリアの帰属問題
オーストリア革命において外縁州ガリツィア=ロドメリアは上級層ポーランドがオーストリア帝国を、下級層ウクライナ人がハンガリー王国をそれぞれ支持した。下級層が力を持つ東部ロドメリアでは11月1日にリヴィウで西ウクライナ人民共和国が建国された。対してポーランドはオーストリアとベック密約を結び5日にガリツィア進駐を行った。進駐後ポーランド軍は西ウクライナを支援するウクライナ軍と対峙しこれをベックラインまで後退させた。オーストリアは密約に基づいて両国の停戦を合意させ8日間に及ぶプシェミシル戦争を終結させた。以後当会談が行われるまでこのベックラインを境にポーランドとウクライナがガリツィア及びロドメリアを占領した。しかしブコヴィナ地域は当時ハンガリーが支配を継続しており、まだ領土が画定していなかった。
  • モルダヴィア赤軍との平和交渉
連合軍がソビエトと退治するにあたり同様の体制をとるモルダヴィア赤軍は常に動向監視の対象であった。2週間戦争でモルダヴィアはオーストリアと敵対したため平和的交渉は難航した。だがモルダヴィア赤軍はソビエトが影響力を持つウクライナ・ソビエトと沿ドニエストル地方を巡って激しく対立した。結果的に孤立したモルダヴィアは外交転換を図ってオーストリアと融和することとなる。
  • バルト諸国の統合
ドイツによるロシア侵攻で東欧は小規模な政権が乱立する状況となりこれらの政権は脆く民衆からの指示も盤石ではなかった。それに加えてバルト地域の影響力拡大を狙うポーランドは同地に圧力をかけたためオーストリアはそれを抑えようとバルト統合を計画した。

 これらの複雑な紛争は互いに影響しあって会議を難航させた。とりわけこれらの殆どに関わるポーランドは極めて難解な交渉を強いられた。
 ポーランド全権大使ピウスツキはこれらの問題に対し次のように主張した。以外全文。

 ポーランド王国の東欧ならびに中欧における一定の地位は到底無視出来るほどのものではなく、それ相応の対応が必要であり関係各国は速やかに次の事項について認めるべきである。
1 東欧のポーランド人及びリトアニア人における民族的地位は無条件に保証されるものであり何人たりとも神によって与えられた自然権を侵してはならない
2 ポーランド人及びリトアニア人の民族的コミュニティは民族自立、民族自決、民族集結の三つの理念に基づいて各国家に帰属するものである
3 ヤギェヴォ理念、ひいては3月憲法は東欧秩序における古来的かつ伝統的な規範でありその趣旨は現在までに引き継がれるべきものである。

要するにピウスツキはポーランド人居住地域がポーランド王国に帰属すること、ポーランド第一王政時代の3月憲法が東欧における最高法規であるということの二つを各国に認めさせようとした。当然ベラルーシは自国領を明け渡すことはできずこの理念を却下した。

結果

 会議期間中の1月7日、オーストリアはリトアニア王国に政治工作を行った。後にミンダウガス事件と呼ばれる政治工作は成功し、ミンダウガス2世はリトアニアを追われてプロイセンへの亡命を余儀なくされた。 ミンダウガス事件の後アドルフ・メクレンベルク・エストニア・リヴォニア公によってリトアニアはとって代わられ、ピウスツキのボーランド=リトアニア再興の夢は絶たれた。

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