第一次ユーゴスラビア紛争 | |||||
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突撃するセルビア兵士 | |||||
詳細情報 | |||||
戦争 | 第一次ユーゴスラビア紛争 | ||||
年月 | 1918年11月15日〜1919年1月13日 | ||||
場所 | バルカン半島西部 | ||||
結果 | サラエボ裁定? 第二次ユーゴスラビア紛争の勃発 | ||||
交戦勢力 | |||||
セルブ・クロアート・スロヴェーン王国? | ユーゴスラビア連合王国? | モンテネグロ王国? | |||
オーストリア帝国 | |||||
指導者、指揮官 | |||||
スティエパン・ラディチ? スラヴコ・クヴァテルニク? | ペータル1世? | ニコラ1世? | |||
カール1世? | |||||
戦力 | |||||
230,000 | 300,000 | 70,000 | |||
50,000 |
1918年10月25日のグラーツ協定でクロアチアは独立をオーストリアに約束させ、28日にクロアチアはオーストリア=ハンガリーから離脱して独立した。一方セルビア王国は10月26日のロズニツァ条約でオーストリアと講和した、セルビアは戦争から離脱して独立国の地位を得た。ロズニツァ条約でオーストリアが1908年に併合したボスニア地域について、オーストリアの領有権放棄が宣言された。当時のエルネスト・ケルバー?オーストリア首相は、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を狙ったが、セルビアとの交渉難航を防ぐために落ち着いた折衷案であった。
しかしこの空白地帯を巡ってクロアチアは11月2日に、セルビアは4日に領有を宣言した。この際クロアチアは大クロアチア主義的な汎スラブ主義による統一を狙い、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国?、すなわちセルビア人・クロアチア人・スロベニア人国を建国した。この動きに対抗してセルビアはユーゴスラビア連合王国?を建国した。
しかしこの空白地帯を巡ってクロアチアは11月2日に、セルビアは4日に領有を宣言した。この際クロアチアは大クロアチア主義的な汎スラブ主義による統一を狙い、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国?、すなわちセルビア人・クロアチア人・スロベニア人国を建国した。この動きに対抗してセルビアはユーゴスラビア連合王国?を建国した。
こうして汎スラブ主義国家が並立し、互いに正当性を主張しあったためにクロアチアはまず、11月15日にツァジンを占領した。対してセルビアは17日にビィエリナを占領した。現地人の抵抗を受けない両軍は難なく占領地を広げ21日にゼニツァで衝突した(ゼニツァの戦い)。2週間にわたるこの戦いで両軍は損害を出し、膠着状態に陥った。
一方この動きを見て、モンテネグロ王国は25日にクロアチア領のブドヴァを占領しようとしたが、この地にはまだオーストリア軍が駐屯し続けており、モンテネグロ軍はこれをクロアチア軍と誤って発砲した*1(ブドヴァ事件)。オーストリアはバルカン諸国に大幅に譲歩した外交を実行していたが、これに対してカール1世は激怒し、12月3日にオーストリア軍はクロアチア軍を支援する形でモンテネグロに侵攻した(ツェティニエの戦い?)。
またセルビアはこれをクロアチアのモンテネグロ侵攻と誤解した。ここでクロアチアがモンテネグロを併合すれば、クロアチアの汎スラブ主義に劣ってしまうため、セルビアとしてもモンテネグロを併合する必要があった。そのためセルビアは12月5日にモンテネグロに侵攻した。モンテネグロ王ニコラ1世は8日にブルガリアに逃亡した。バルカン半島のさらなる支配を望んでいたブルガリアはこの紛争に介入する気でいた。ボリス3世は13日にニコラ1世と会談し、スコピエ条約としてブルガリアとモンテネグロは単独講和した。そのうえでブルガリアは義勇軍をモンテネグロに派遣した。
また、東方戦争が勃発したことでオーストリアは紛争から離脱したため、クロアチアは劣勢となった。12月19日にセルビア軍はゼニツァを突破してヤイツェに到達した。クロアチアは日に日に撤退し28日にはプリイェドルを失陥した。しかしモンテネグロ軍の反攻作戦が成功してきたことやセルビア軍の疲弊度が高まったために、これ以上の侵攻作戦ができなくなった。モンテネグロ軍は29日にプリボイを占領した。
バルカン情勢の不安定化はオーストリアにとってもよろしくないことであった。ブルガリアもオスマンとの対立が深まったことでバルカン情勢に関わっているどころではなくなってしまった。またハンガリー?の問題でオーストリアとブルガリアは協調したため、両国は紛争の仲介を図った。年が明けて1月13日、サラエボ裁定によって紛争を終結させた。
一方この動きを見て、モンテネグロ王国は25日にクロアチア領のブドヴァを占領しようとしたが、この地にはまだオーストリア軍が駐屯し続けており、モンテネグロ軍はこれをクロアチア軍と誤って発砲した*1(ブドヴァ事件)。オーストリアはバルカン諸国に大幅に譲歩した外交を実行していたが、これに対してカール1世は激怒し、12月3日にオーストリア軍はクロアチア軍を支援する形でモンテネグロに侵攻した(ツェティニエの戦い?)。
またセルビアはこれをクロアチアのモンテネグロ侵攻と誤解した。ここでクロアチアがモンテネグロを併合すれば、クロアチアの汎スラブ主義に劣ってしまうため、セルビアとしてもモンテネグロを併合する必要があった。そのためセルビアは12月5日にモンテネグロに侵攻した。モンテネグロ王ニコラ1世は8日にブルガリアに逃亡した。バルカン半島のさらなる支配を望んでいたブルガリアはこの紛争に介入する気でいた。ボリス3世は13日にニコラ1世と会談し、スコピエ条約としてブルガリアとモンテネグロは単独講和した。そのうえでブルガリアは義勇軍をモンテネグロに派遣した。
また、東方戦争が勃発したことでオーストリアは紛争から離脱したため、クロアチアは劣勢となった。12月19日にセルビア軍はゼニツァを突破してヤイツェに到達した。クロアチアは日に日に撤退し28日にはプリイェドルを失陥した。しかしモンテネグロ軍の反攻作戦が成功してきたことやセルビア軍の疲弊度が高まったために、これ以上の侵攻作戦ができなくなった。モンテネグロ軍は29日にプリボイを占領した。
バルカン情勢の不安定化はオーストリアにとってもよろしくないことであった。ブルガリアもオスマンとの対立が深まったことでバルカン情勢に関わっているどころではなくなってしまった。またハンガリー?の問題でオーストリアとブルガリアは協調したため、両国は紛争の仲介を図った。年が明けて1月13日、サラエボ裁定によって紛争を終結させた。
しかし終結後も紛争問題は解決されず、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムは15日に自らの主権を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナ・イスラム共和国を建国した。また、サンジャク地方のムスリムも18日に主権を宣言し、サンジャク・イスラム共和国を建国した。
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