第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

第二次ユーゴスラビア紛争
現場で指揮するクロアチア軍
詳細情報
戦争第二次ユーゴスラビア紛争
年月1919年1月26日〜1919年5月18日
場所バルカン半島西部
結果ベオグラード協定?
コンスタンティノープル=アテネ協定?の成立
交戦勢力
セルブ・クロアート・スロヴェーン王国?ユーゴスラビア連合王国?モンテネグロ王国?
オーストリア帝国
指導者、指揮官
スティエパン・ラディッチ?
スラヴコ・クヴァテルニク?
ペータル1世?ニコラ1世?
カール1世?
戦力
230,000300,00070,000
50,000

背景

 1919年1月15日にボスニア・ヘルツェゴビナ・イスラム共和国が、18日にサンジャク・イスラム共和国が独立を宣言すると、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国とユーゴスラビア連合王国は26日に同地域に侵攻した。

経過

 侵攻後ボスニアはクロアチア軍とセルビア軍の挟撃によって疲弊した。軍民関係なくムスリム人は殺され、家々は両軍によって焼かれた。セルビア大統領のニコラ・パシッチは2月20日にサラエボに訪れて演説を行いスルプスカのセルビア人に勇気を与える一方でボスニアからムスリムを一掃しようとした。対してボスニアの指導者ヴォイスラヴ・コツマノツィッチはトゥズラを拠点に本格的な政権を組織し、オスマン国の後ろ盾を得て大量の武器を手に入れることに成功した。
 そんな中3月6日にクロアチア軍がバニャ・ルカに進駐すると市に住むセルビア人はそれに反抗しクロアチア軍と交戦する事件が発生した。この事件以降クロアチアはセルビアとも直接に戦うこととなった。数で劣勢なクロアチア軍はセルビア相手に敗戦を重ね国内では反戦論も主張しつつあった。そんな状況を打開すべくクロアチアは再度モンテネグロに侵攻、3月16日にヴェリゲ海峡を占領した。予てよりブルガリアの後ろ盾を得ていたモンテネグロは起死回生の一打を決めるべく、19日にヘルツェゴビナに逆侵攻した。それ以降モンテネグロは国境での小競り合いを除き戦争に巻き込まれることはなくなった。

戦後

 しかし終結後も本質的な問題は解決されず、バルカン半島は戦後も欧州の火薬庫と呼ばれることとなる

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