第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

ブドヴァ事件
ブドヴァに駐留するオーストリア軍
基本情報
場所ブドヴァ
日時1918年11月25日
対象オーストリア帝国
犯人モンテネグロ公国?
結果オーストリア・クロアチアによる報復
影響モンテネグロの第一次ユーゴスラビア紛争参戦
 ブドヴァ事件は1918年11月25日に、モンテネグロ公国軍がオーストリア軍を誤射した事件。オーストリア・クロアチア連合軍の報復によってモンテネグロは戦争を避けられず、多くの被害を被った。

背景

 ロズニツァ条約締結以降、ペータル1世は専制政治を始めセルビアは大セルビア主義に基づく政治体制を築いていた。オーストリアがボスニアを放棄するとこの空白地帯を巡って、大セルビア主義をもとにユーゴスラビアを統一したいセルビア勢力と、大クロアチア主義をもとにユーゴスラビアを統一したいクロアチア勢力とで対立し、第一次ユーゴスラビア紛争が勃発するに至った。

 国民の7割が南スラブ系の民族で構成されている小国モンテネグロもこの争いの範疇外ではなかった。この戦争の勝者が南スラブを統べるのはもはや瞭然であり、モンテネグロとして独立を守るためにはこの戦争で少なからず力を示す必要があった。

経緯

  11月20日、クロアチアがモンテネグロ国境を越境したという情報をモンテネグロ軍上層部は入手した。この時点で確かにクロアチア軍はヘルツェグ・ノヴィを占領しており戦争状態にあったのは明らかであるが、これ以上の侵攻は机上の空論でしかなかった。しかしモンテネグロ軍上層部は既にクロアチア軍が首都ポドゴリツァを目標として侵攻してきていると考え全土に戒厳令を出した。

 11月23日、中部ポドゴリツァに1旅団規模の軍隊が居る情報を上層部は入手した。しかしこの時モンテネグロ側ではこの部隊がどこの国籍かを判定できていなかった。このオーストリア軍自体は1916年1月14日にポドゴリツァ休戦協定?が締結された後に政権を樹立したヴィクトール・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェベナウ中尉の配下の隊で、沿岸の戦略的要所であるブドヴァに駐屯していた。しかしながら既に本国ではバルカン方面軍の駐留解除が上層部より命令されており、それでも旅団が駐留していたのはこの状況では不可解なことであった。

 11月24日午後23時、モンテネグロ104中隊はモンテネグロ軍上層部の命令に基づいてブドヴァに駐留する軍の偵察を開始した。しかし夜間かつ天候不良ということもあって特定はできず旗の確認すらできない状態であった。

 中隊の兵士の手記によると11月25日の午前3時頃、潜伏していた兵士が暴風雨によって錯乱した結果の2名が発泡、それにオーストリア軍が応戦する形となり銃撃戦となった。夜が明ける頃にモンテネグロ軍は撤退、両軍併せて死傷者38名がでる惨事となった。

結果

 事態を重く受け止めたもののオーストリア軍は既にソビエトの脅威がある以上ユーゴスラビアの諸問題に干渉する余裕はなかった。しかしこの事件が改革派のリーダーカール1世?の耳に入ると、彼は『余は余の人民に愚かなスラブ人の為に命を落とさせたかったのではない』と激怒し、近衛師団を使ってでもモンテネグロを報復すると軍部が止めるのを聞かなかったため、オーストリア軍は報復作戦を開始せざるを得なかった。

 オーストリアの報復作戦が始まるとモンテネグロ軍は迎え撃とうとしたが、ツェティニエの戦いで潰走して大敗を喫した。またこの時オーストリアはクロアチアと合同でモンテネグロに侵攻したため、それにセルビア軍も呼応して戦争を仕掛けた。翌月にはユーゴスラビアもモンテネグロ国境を越境して攻撃するに至った。 

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