第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。


赤の線がブラスラフ線


ブラスラフ線リトヴィノフ=ルボミルスキ協定の付随秘密協定に基づくポーランド王国ロシア社会主義連邦ソビエト共和国?との国境線。両者の会談が行われたベラルーシ北西部のブラスラフが由来。

概要

 ワルシャワの戦い?以降東方戦争は概ね同盟側優勢に推移し、第二次ミンスクの戦い?で赤軍が敗れると完全に勝敗は決し、1919年10月25日にナルバ停戦協定? が締結された。同盟側は停戦に際してスモレンスク州とウクライナ沿岸部のノヴォロシア?地域に進駐した。オーストリアは十万を擁する軍団でノヴォロシアに駐屯するとネストル・マフノ?無政府主義運動?を駆逐して、同地に白軍派のピョートル・ヴラーンゲリ?将軍率いるロシア白衛民主共和国?を擁立した。

 一方で1918年のミンスク・クーデター?で赤軍派に寝返ったベラルーシには、ピョートラ・クレチェウスキ?の人民共和国政府が帰還を果たしたが、ポーランドは現地赤軍の排除を名目にベラルーシ全域に憲兵を含む陸軍15万人で駐屯し、反乱分子の抑制を理由にベラルーシ軍に武装解除を強制した。オーストリアはベラルーシにも駐屯しようとキエフから北上しマズィルに着くと現地のポーランド軍と駐屯政策を廻って対立し、小競り合いに発展した(マズィル事件?)。マズィル事件を皮切りにポーランドとオーストリアの対立は顕著となり緊張は高まった。既に停戦が成立し、ソビエトを無力化させることに成功していたオーストリアはポーランド問題を画策する段階に移行しており、ロシアとの講和で戦後レジームをどのように形作るかで外務省はもちきりだった。

 しかしポーランドとソビエトの間に11月16日にリトヴィノフ=ルボミルスキ協定が締結され、単独講和が成立するとオーストリアとしてはポーランドとソビエトを同時に対する可能性が浮上し、ポーランドを封じ込める諸政策は全て瓦解した。オーストリア等ポーランドを除く全ての同盟諸国は無併合無賠償のリガ条約を締結する屈辱を味わうこととなった。

 ソビエトとポーランドの協定の秘密付随書でそれぞれの権益の境界を示す基準が策定されており、協定がブラスラフで交わされたことからブラスラフ線と呼ばれている。1920年に両者はベラルーシを分割、21年にはウクライナを分割し、今日の国境線へと至る。

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