セゲド条約 | |
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詳細情報 | |
締結 | 1918年2月1日 |
締約 | 中央同盟国、ルーマニア王国 |
場所 | セゲド? |
結果 | ルーマニア王国?*1の施行 |
フォクシャニ休戦協定によりルーマニア戦線における戦争は終結したが、ロマン革命やブルラド事件など度重なる東欧不安により、中央同盟国は速やかな事態収束を図ろうとした。こうした背景からオーストリア=ハンガリー帝国を主軸とする対ルーマニア講和外交団はハンガリー領内のセゲドにてルーマニアの外交官と交渉した。
ルーマニア側は治安維持のために、中央同盟国側に保護の要請をした。これにオーストリアは応じる考えを出したが、旧領ドブロジャを回収したかったブルガリアやオーストリアに不信感を抱くオスマン帝国はルーマニアの分割を提案した。オスマン帝国代表ムスタファ・ケマルが提案した分割案によると、モルダヴィア地方をドイツの10年租借統治下に、ワラキア地方をオーストリアの10年租借統治下、南ドブロジャをブルガリアに割譲、北ドブロジャをブルガリアの無期限管理下に置こうと考案していた。しかしルーマニアの分割に多額の負債が生じる可能性が排除できなかったドイツ側により却下され、ルーマニア王国は中央同盟国よりの第二王政のもとで全土維持の方向性で案を固めていた。
しかし、1月初旬にルーマニア革命軍がモルダヴィア地方を占領することに成功し、ルーマニアはモルダヴィア地方を失った。また納得のいかなかった、ブルガリアはブルガリア人保護と治安維持の名目で1月18日にドブロジャに進駐したことで、ルーマニア全土維持案は白紙となった。オーストリアはブルガリアの躍進が自身のバルカン半島の利権の障害になる可能性を感じ始め、またオスマンに対しても不信感を抱いた。もう一度外交団はセゲドに集まって、会議を行った*2。会談中、主にオーストリアとブルガリアの間で対立する構図になったが、ドイツが仲介することによってその場を収めた。結局、モルダヴィアについては言及せず、また、ドブロジャのブルガリアによる保護国化を黙認し、ワラキア地方での主権などを記述して、2月1日に講和条約は締結された。これによりルーマニアは影響力を完全に失い軍備も制限された。
ルーマニア側は治安維持のために、中央同盟国側に保護の要請をした。これにオーストリアは応じる考えを出したが、旧領ドブロジャを回収したかったブルガリアやオーストリアに不信感を抱くオスマン帝国はルーマニアの分割を提案した。オスマン帝国代表ムスタファ・ケマルが提案した分割案によると、モルダヴィア地方をドイツの10年租借統治下に、ワラキア地方をオーストリアの10年租借統治下、南ドブロジャをブルガリアに割譲、北ドブロジャをブルガリアの無期限管理下に置こうと考案していた。しかしルーマニアの分割に多額の負債が生じる可能性が排除できなかったドイツ側により却下され、ルーマニア王国は中央同盟国よりの第二王政のもとで全土維持の方向性で案を固めていた。
しかし、1月初旬にルーマニア革命軍がモルダヴィア地方を占領することに成功し、ルーマニアはモルダヴィア地方を失った。また納得のいかなかった、ブルガリアはブルガリア人保護と治安維持の名目で1月18日にドブロジャに進駐したことで、ルーマニア全土維持案は白紙となった。オーストリアはブルガリアの躍進が自身のバルカン半島の利権の障害になる可能性を感じ始め、またオスマンに対しても不信感を抱いた。もう一度外交団はセゲドに集まって、会議を行った*2。会談中、主にオーストリアとブルガリアの間で対立する構図になったが、ドイツが仲介することによってその場を収めた。結局、モルダヴィアについては言及せず、また、ドブロジャのブルガリアによる保護国化を黙認し、ワラキア地方での主権などを記述して、2月1日に講和条約は締結された。これによりルーマニアは影響力を完全に失い軍備も制限された。
ブルガリアによるドブロジャ進駐は当条約によって事実上承認されたものでありバルカン半島におけるブルガリアはさらなる躍進を果たした。
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