第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

ロマン革命
詳細情報
発生1917年12月19日
目的王政打倒、社会主義革命、反ゲルマン主義
対象ルーマニア王国?オーストリア=ハンガリー帝国?
結果モルダヴィア社会主義人民共和国の建国、三国時代の到来
発生地ロマン〜ヤシ
 ロマン革命とはルーマニア王国北部の都市ロマンから始まった、社会主義革命である。一般的にロシアでの革命より影響されマルクス・レーニン主義のもとで労働者の解放を国王政府に求めて勃発した。この革命が第一次世界大戦を泥沼の戦争へと導いた原因とされる

前史

 1916年、9月中旬、ルーマニア王国は独墺両国との同盟を破って連合国側で参戦し、ルーマニア戦線が構築された。始めはルーマニア軍の快進撃が続き、一時はトランシルヴァニアのルーマニア人居住区のほぼ全域を占領する戦果を挙げたものの、9月中旬ドイツの対ルーマニア軍の司令官に、西部戦線で多大な功績を挙げたエーリッヒ・フォン・ファルケンハインが就任したことで、一斉に同盟国軍は反撃を開始しルーマニアの各軍は撃破・壊滅させられた。

 そうして12月6日、ルーマニアの王都ブカレストは同盟国軍によって陥落し、ルーマニア政府は王族と僅かな近衛兵を連れてヤシへ遷都した。ブカレストの戦いで、包囲中の同盟国軍に対して突撃を繰り返したルーマニア兵はほとんどが駆逐され最終的にこの包囲戦で15万人以上のルーマニア軍が捕虜になる大損害をおってしまった。なんとか首脳部は政権の維持に成功したものの首都の陥落とワラキアの喪失によって軍の士気は地に落ち、開戦前の約3分の1も残らないルーマニア軍は連合国軍の完全なお荷物となってしまった。

 国土の半分を失ったルーマニアはそれでもモルダヴィアにて政権を維持しようとした。本国への重要な戦線であるとようやく確信したロシア軍は1917年が始まってから、ルーマニア戦線における派遣軍を増員させた。この年はロシア帝国の強固な防衛線に守られながらなんとか膠着状態を維持させることが出来た。

 しかし11月7日、後ろ盾であるロシア帝国で十月革命が発生し、ロシアの各地で労働者や農民が決起した。余波は次第に前線にいる兵士にも伝わり東部戦線やルーマニア戦線は一斉に崩壊し始めた。大半の派遣軍が消滅する中でルーマニア政府は中央同盟国と講和を前提とした休戦協定を締結しようとドイツ側と話し合い結果的に12月9日にフォクシャニ休戦協定を結んでルーマニア戦線は終結した。

経過

ロマン蜂起からヤシ蜂起まで

 このような事実上の敗戦に対して危機感を募らせたルーマニア国民はルーマニア政府や王室に対しても不信感を抱いた。更に赤軍がウクライナやオデッサ、モルドバにまで侵攻してきたという情報が伝わりルーマニアは重度の社会不安に陥った。12月の16日にモルドバで白軍が蜂起してルーマニアでは難民が発生する程に社会は大混乱した。その中でソビエト赤軍によって派遣されたロシア人扇動家クリメント・ヴォロシーロフらソ連共産党員は1917年12月19日モルダヴィア中部のロマンでソビエトの決起を呼びかけ、ロマンの市民はたちまち蜂起した。

 ロマンが目と鼻の先であり、ルーマニア政府の中枢があるヤシでは市民がロマン市蜂起との知らせを聞いて自分たちも蜂起し始めた。こうして革命はモルダヴィア全土にまで広がりルーマニア王国による完全存続の希望は瓦解し、同盟国軍占領地のワラキアへ政府を移す結果となってしまった。のちの1918年1月1日、モルダヴィアはモルダヴィア社会主義共和国として独立した。

ブルラド事件による混乱

 ヤシから移動を始めた王族は政府中枢部の組織よりも遅れて途中のブルラドに着いた。ブルラドではまだ革命の余波は広がってはいなかったものの国王フェルディナンド一世は酷く不安に感じた。その不安は的中し、12月23日、フェルディナンド一世らルーマニア王族はブルラド市民とロマン革命の中枢部によって暗殺された。国王一家は滞在中身元がバレるのを防ぐために民家に隠れていたが、はじめ王党派で居住区を提供した家主によって密告が行われ、フェルディナンド一世は銃殺された。王族の近衛兵は当時23人いたと言われるがそのうち8人は逃亡し、残りの15人も革命派の部隊によって殺害された。国王の遺体はブルラド郊外の荒野に無惨に捨てられ3日後に警察隊によって発見された。

 国王が殺されたことを知ったルーマニア王国政府はこの事実が全土に知れ渡ればルーマニア人の革命派への揺らぎがいっそう強くなり、また同盟国相手の交渉が不利になると考えた。これに強固な情報規制を敷いて対処しようとしたルーマニア政府だったが、この事実は情報規制が敷かれた僅か4時間後に同盟国側に知られてしまった。

二十日間戦争の勃発

 同盟国側はこの情報を掴んで、すぐにルーマニア王国政府側と交渉を開始した。ルーマニア王国政府は同盟国に対して不利な状況で交渉に臨んだ。同盟国側の主軸はオーストリアが担い、セゲドでの会談ではトランシルヴァニアでルーマニアと争うオーストリア=ハンガリー帝国の要求が強く目立った。ルーマニアはこの不利な状況を打開する方法を考えられず、自国の存立のために同盟国側に対して保護を要請した。二重帝国はこれに応じたが、ドブロジャの領土問題でこの戦争の講和で返還させたいブルガリアやオーストリアに不信感を抱くオスマンはルーマニアの分割を提案した。オーストリア、オスマン、ブルガリアの要求で会議が糾弾する中ルーマニアは発言力を完全に失った。しかしドイツはこの案を却下し、ルーマニアの全土存続案によってこの講和を終わらせることで合意させた。

 しかし12月31日、ロマン革命軍は二重帝国領内のブコヴィナに侵攻を開始した。こうして同盟国とロマン革命軍との間に二十日間戦争が勃発した。はじめ不意を付かれた二重帝国軍はカルパティア山脈の内側まで侵入を許し、革命軍によってビストリツァが陥落した。北部の都市が着々と陥落したという情報を受け、ガリツィアを始めオーストリア人やポーランド人によって支配されていた地域では革命の兆しが見えてきた。自国内で革命が起きることを恐れたオーストリア政府はドイツ軍に対して速やかな撃退を要請した。しかし雪の影響で、ドイツ軍が革命軍と接敵したのは1月4日のことだった。接敵し、革命軍を押し返すことが出来たドイツ軍は更にモルダヴィア地方へ押し返そうとして山脈の下山に差し掛かった。しかしピピリグを通過しようとしたドイツ軍は山間に隠れていた革命軍によって攻撃されこの戦いだけで2万人の損害が生じてしまった。さらに10日から大雪が吹いたことによって大量の凍死が出てしまった。

 このまま山脈を強引に越えようとすれば士気が低下し戦争の敗北に繋がると考えたエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは攻勢中止を決定し、19日に全ての交戦が終了した。こうして二十日間戦争は終了したが、ロマン革命軍はモルダヴィア地方全域の占領を完了させてしまった。さらに戦争が停止する1日前の18日にブルガリアはブルガール人の保護をするためにドブロジャ地方へ進駐しこの地域を支配するに至った。このように二十日間戦争によってセゲド会談はほぼ白紙状態に戻ってしまった。第二次セゲド会談ではまたもやオーストリアとブルガリアで対立したがドイツの仲介によって事態を収拾させた。こうして2月1日にセゲド条約が結ばれてルーマニア戦線は終結した。

影響

 国王暗殺はルーマニア全土に知れ渡り王党派は求心力を失った。代わって台頭したのは国粋主義者である。極右派の政治家はのちに1923年に青年将校コルネリウ・コドレアによって設立された鉄衛団へと取り込まれた。結果的にルーマニアは極右反ユダヤ主義の道を進むことになる。

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