第三次バルカン戦争 | |||
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ルーマニア領ワラキアに侵攻するハンガリー軍 | |||
詳細情報 | |||
戦争 | 第三次バルカン戦争 | ||
年月 | 1919年4月16日〜9月5日 | ||
場所 | バルカン半島北部 | ||
結果 | ハンガリー・ソビエトの瓦解 ルメリア同盟の成立 | ||
交戦勢力 | |||
ハンガリー評議会共和国? | ルーマニア王国? | ||
ソビエト連邦? | ブルガリア帝国 | ||
モルダヴィア赤衛義勇軍 | オーストリア帝国 | ||
スロバキア・ソビエト? | スロバキア共和国? | ||
指導者、指揮官 | |||
クン・ベーラ? | カロル2世? | ||
ウラジーミル・レーニン? | ボリス3世? | ||
クリメント・ヴォロシーロフ? | カール1世? | ||
アントニン・ヤロスラフ? | ミラン・ホッジャ? | ||
戦力 | |||
260,000 | 78,000 | ||
57,000 | 185,000 | ||
12,000 | 34,000 | ||
12,000 | 9000 | ||
第三次バルカン戦争 | |||
ワラキア侵攻?〜スラティナの戦い?〜スロバキア侵攻?〜カロル作戦?〜イシュトヴァーン革命?〜ブカレスト条約? |
10月28日にハンガリーはオーストリア革命によって二重帝国から追放された。同日ティサ・イシュトヴァーン?元首相はハンガリー王国?として独立を宣言した。29日に、クロアチア共和国?も独立した。しかし3日後の31日にブダペストを中心に反体制運動が始まり秋薔薇革命が勃発した。ティサは革命の最中に殺害され非業の死を遂げた。一方で革命派のリーダーであるカーロイ・ミハイ?は自身を大統領兼首相として独裁体制を敷いた。しかし治世は長く続かずさらに11月27日にオーストリアの支援でスロバキアが独立した影響で、3月21日にハンガリー革命の成立によってハンガリー人民共和国?はおよそ5ヶ月で崩壊した。代わってクン・ベーラ?によってハンガリー評議会共和国?が成立し共産党による独裁体制が成立した。
プロレタリア独裁が完成したハンガリーはロシア・ソビエト?との同盟を要請したが内戦中のロシア・ソビエトはこれを却下した。ロシア・ソビエトを支援するべくハンガリーはラーコシ・マーチャーシュ?の下ハンガリー赤衛軍?を設立し、ロシア内戦参戦の機を伺った。1919年初頭、この頃ハンガリーはモルダヴィア社会主義人民共和国経由でソビエトと連絡していた。しかし間にはトランシルヴァニアがあり、ここでは頻繁にルーマニア人による反体制運動が行われていた(ルーマニア政府の後押しがあったとされる)。そのためハンガリーとしてはトランシルヴァニアの安全圏確保が絶対的に必要であった、また当時のルーマニア王国?はドイツ革命に伴うドイツ軍の撤退によって政府は混乱状況に陥っていたため侵攻するにはこの上ない状況であった。
プロレタリア独裁が完成したハンガリーはロシア・ソビエト?との同盟を要請したが内戦中のロシア・ソビエトはこれを却下した。ロシア・ソビエトを支援するべくハンガリーはラーコシ・マーチャーシュ?の下ハンガリー赤衛軍?を設立し、ロシア内戦参戦の機を伺った。1919年初頭、この頃ハンガリーはモルダヴィア社会主義人民共和国経由でソビエトと連絡していた。しかし間にはトランシルヴァニアがあり、ここでは頻繁にルーマニア人による反体制運動が行われていた(ルーマニア政府の後押しがあったとされる)。そのためハンガリーとしてはトランシルヴァニアの安全圏確保が絶対的に必要であった、また当時のルーマニア王国?はドイツ革命に伴うドイツ軍の撤退によって政府は混乱状況に陥っていたため侵攻するにはこの上ない状況であった。
1919年4月16日、ハンガリー軍はブラショフ?から南下してカルパティア山脈を超えルーマニア王国に対してワラキア侵攻?を開始した。また、開戦と同時にモルダヴィア社会主義人民共和国は義勇軍を結成しハンガリーに送り込んだ。駐留軍撤退によって正規軍を持てていなかったルーマニアは対した抵抗もできず4月25日にほぼ非交戦でブカレストはハンガリー赤衛軍に占領され、ルーマニア王国は深刻な状況に陥った。
ルーマニアはドイツ軍のかわりにオーストリア軍やブルガリア軍に支援要請をした。すぐに対応できるブルガリア軍はステファン・ネレゾフ?歩兵大将のもとワラキアに進駐した。対してオーストリアはハンガリー西部から支援しようとしたが、カール1世が戦争を回避しようとしたため最初はオーストリアは参戦しなかった。5月4日、ブルガリアはハンガリーに宣戦布告し、5月15日、ブルガリア軍はスラティナに駐屯するハンガリー軍に攻撃を仕掛けた。スラティナの戦い?では半包囲に成功したブルガリア軍優勢のまま進み20日にハンガリー軍は撤退。23日にブカレストを放棄してカルパティア山脈の内側に撤退した。25日ブルガリア軍はブカレストとクラヨバに入城した。
ルーマニアはドイツ軍のかわりにオーストリア軍やブルガリア軍に支援要請をした。すぐに対応できるブルガリア軍はステファン・ネレゾフ?歩兵大将のもとワラキアに進駐した。対してオーストリアはハンガリー西部から支援しようとしたが、カール1世が戦争を回避しようとしたため最初はオーストリアは参戦しなかった。5月4日、ブルガリアはハンガリーに宣戦布告し、5月15日、ブルガリア軍はスラティナに駐屯するハンガリー軍に攻撃を仕掛けた。スラティナの戦い?では半包囲に成功したブルガリア軍優勢のまま進み20日にハンガリー軍は撤退。23日にブカレストを放棄してカルパティア山脈の内側に撤退した。25日ブルガリア軍はブカレストとクラヨバに入城した。
カロル作戦?とハンガリー・ソビエトの終焉
7月20日にブルガリア軍参謀本部は大規模包囲計画を立案した。このカロル作戦?によってトランシルヴァニアでは包囲が完成し、ハンガリー軍の三割が包囲された。ハンガリー軍はモルダヴィアに対して軍の撤退のための通行を要求したが、自国権益がブルガリア軍によって消滅する恐れがあったためモルダヴィアは軍事通行権要求を却下した上で義勇軍のみを撤退させた。こうしてハンガリー軍は殲滅されるか降伏するかしてハンガリー軍は戦線維持が困難になったためティサ川まで大きく後退した。また8月18日スロバキア・ソビエトはスロバキア軍やオーストリア軍の攻撃で崩壊し、アントニン・ヤロスラフ?・ソビエト議長はソ連に亡命した。敗色が濃くなる中9月3日に、ブダペストではフリードリヒ・イシュトヴァーン?やホルティ・ミクローシュ?によるイシュトヴァーン革命?が発生した。クン・ベーラはロシア・ソビエトに亡命し、その日中にハンガリー評議会共和国は崩壊した。革命後もホルティらによる戦争が継続されたが9月5日、デブレツェンのハンガリー再占領が終わったところで停戦が成立した。
9月10日、新たにハンガリー国王を擁立できなかったフリードリヒ・イシュトヴァーンはホルティらの批判で失脚し、ホルティが自らを摂政とするハンガリー摂政王国?を建国した。13日、ブカレストで講和会議が開かれた。まずオーストリアはハンガリーの分割を提案。東部ヴォイヴォディナをユーゴスラビアに、西部ヴォイヴォディナをクロアチア?に割譲。カルパチア・ルテニアのスロバキア?への割譲。ハンガリーの非武装化などの厳しい講和条件を提案した。ホルティは当然受けいられるものではなく全面的に反対し、代わりにスロバキア、クロアチア、ユーゴスラビアの国家承認をした上でドナウ民族評議会会議機構への加盟を提案した。これに対してオーストリアは軍をハンガリー国境に集結させた。ブルガリアもまた、オーストリアに反対した。ブルガリアは代わりにショプロンをオーストリアに割譲するという条件を提案し、残りの全ての講和を無併合・無賠償とした。この頃オーストリアとブルガリアは決別しており、互いは緩衝国を必要としたためオーストリアは仕方なくこれを受け入れ、ブカレスト条約が締結された。
9月10日、新たにハンガリー国王を擁立できなかったフリードリヒ・イシュトヴァーンはホルティらの批判で失脚し、ホルティが自らを摂政とするハンガリー摂政王国?を建国した。13日、ブカレストで講和会議が開かれた。まずオーストリアはハンガリーの分割を提案。東部ヴォイヴォディナをユーゴスラビアに、西部ヴォイヴォディナをクロアチア?に割譲。カルパチア・ルテニアのスロバキア?への割譲。ハンガリーの非武装化などの厳しい講和条件を提案した。ホルティは当然受けいられるものではなく全面的に反対し、代わりにスロバキア、クロアチア、ユーゴスラビアの国家承認をした上でドナウ民族評議会会議機構への加盟を提案した。これに対してオーストリアは軍をハンガリー国境に集結させた。ブルガリアもまた、オーストリアに反対した。ブルガリアは代わりにショプロンをオーストリアに割譲するという条件を提案し、残りの全ての講和を無併合・無賠償とした。この頃オーストリアとブルガリアは決別しており、互いは緩衝国を必要としたためオーストリアは仕方なくこれを受け入れ、ブカレスト条約が締結された。
ブカレスト条約締結後ホルティはハンガリーの近代化をより一層強めた。ハンガリー摂政王国は領土の大幅割譲こそ免れたものの相次ぐ革命と政変によって国家は安定しなかった。ハンガリー王位も擁立に至らず国民も動揺した。一方でスロバキアやクロアチア、ユーゴスラビアはハンガリーからの完全独立をし、これらの国はドナウ民族評議会会議機構に加盟し、より一層のオーストリアによるドナウ・バルカンの支配が確立した。またブカレスト条約で事実上ルーマニア王国を傀儡国としたブルガリアはルーマニア、ギリシャを主軸とするルメリア同盟を設立した。戦後レジーム?の1つとしてこれらの勢力構造はドナウ・ルメリア体制と呼ばれ、オーストリアとブルガリア両帝国によるバルカン半島の勢力争いが始まった。
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