第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

サンジャク問題ユーゴスラビア王国(セルビア)とモンテネグロ王国?サンジャク・イスラム共和国?にある領土問題である。

サンジャク地方

経緯

 1912年までオスマン帝国の領土だったサンジャク地方は第一次バルカン戦争?によってセルビア王国?モンテネグロ王国?に分割された。サンジャク地方はオスマン帝国?の名残でムスリムが多くキリスト教国である両国とは馴染めなかった。第一次世界大戦が始まるとサンジャク地方にいるムスリムはオスマン帝国への関与を疑われ両国によって迫害された。このムスリム排斥運動?サンジャク虐殺?と呼ばれた。

 大戦後も生き残ったムスリムはサンジャク地方で生活した。しかし転機が訪れる。クロアチアが1918年10月に独立、11月にセルビアが主権を回復するとボスニア・ヘルツェゴビナの領土をめぐって両国で紛争が起こった、これは汎スラブ主義?大クロアチア主義?、民族自立などの問題が複雑に絡み合い、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムもサンジャク地方と同じように虐殺が横行した。ここでセルビアはクロアチアが一方的に成立を宣言したセルブ・クロアート・スロヴェーン王国?に対抗してユーゴスラビア連合王国?を建国した。セルビアとクロアチアは汎スラブ主義に則り12月にモンテネグロに侵攻し第一次ユーゴスラビア紛争が発生した。この紛争はオーストリアが開いたサラエボ会議?で行われたサラエボ裁定?によってモンテネグロが独立した王国であることが承認された。

 しかしサラエボ会議後の1月15日にボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム、18日にサンジャク地方のムスリムが自らの主権を宣言してボスニア・ヘルツェゴビナ・イスラム共和国?サンジャク・イスラム共和国?を建国した。独立を回避したいユーゴスラビアとセルブ・クロアート・スロヴェーン王国?は再びボスニア・ヘルツェゴビナとサンジャクに侵攻した。こうして第二次ユーゴスラビア紛争が勃発した。青年革命後のオスマン・トルコは中央同盟国からの脱退を表明、ムスタファ・ケマルら青年トルコは両国の支援を表明し、ユーゴスラビア紛争はバルカン危機?に発展。オスマンとオーストリアとブルガリアはバルカンの裁定をめぐって対立して戦争も危惧された。だがオーストリアの提案した赤軍に対する三国防共協定?の締結によって危機は収束した。三大国の懐柔後、コンスタンティノープル=アテネ協定によって、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア王国による暫定名目統治、サンジャク地方は名目上の現状維持が行われた。

結果

現在サンジャク地方はサンジャク・イスラム共和国による実効支配が行われているが隣国であるモンテネグロ、ユーゴスラビア、クロアチアはいずれもサンジャクの国家承認を行っていない。

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