第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

ギリシャ内戦
テッサロニキ攻勢で要塞に突撃するブルガリア軍とドイツ軍
詳細情報
戦争ギリシャ内戦
年月1916年8月11日〜1918年9月23日
場所バルカン半島南部
結果国王派の勝利、バルカン戦線での協商側の決定的敗北
交戦勢力
ギリシャ王国ギリシャ共和国
ブルガリア王国イギリス王国
オスマン帝国フランス第三共和政
ドイツ帝国イタリア王国
オーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国
指導者、指揮官
コンスタンティヌス1世

イオニアス・メタクサス?
エレフセリオス・ヴェニゼロス
戦力
17万人24万人
ギリシャ内戦
テッサロニキクーデター?ピレウス・アテネ上陸作戦?テッサロニキ攻略戦アテネ進軍?ドデカネス諸島海戦?クレタ島の戦い?
 ギリシャ内戦(英:Greek Civil War)は第一次世界大戦の勃発を背景にギリシャで国王派と共和派が分かれて起こった内戦である。本来ならば中立国の情勢に対して干渉することは国際儀礼に反するが、第一次世界大戦下のバルカン情勢に深く関わることから、主な交戦国のほとんどが干渉した。この戦争によりギリシャは完全に分断され、終戦後は国土のが荒れかえった。

背景

 第一次世界大戦が1914年に勃発しギリシャは、王族同士も深い関わりがあり陸軍が依存するドイツら同盟国側への参加を支持する国王コンスタンティヌス一世?ら国王派と、イギリスやフランスなどの協商側への参加を主張する首相のヴェニゼロスら共和派とで政治的分裂が発生した。理想として同盟国側として参戦を目指すコンスタンティヌス一世はドイツの軍事力を信頼する一方で、海軍力ではイギリス相手に歯が立たないとよく知っていた。そのため彼はあくまでも中立を維持すべきと主張していた。

 同年11月に東方のオスマン帝国?が参戦しブルガリアの参戦を恐れていたイギリスはブルガリアの第二次バルカン戦争でのブカレスト条約の再会談という破格の条件を提示し、ブルガリアに大きく譲歩した。その際にギリシャはテッサロニキ以東の領土を無条件でブルガリアに割譲し、ギリシャはその見返りとして南部アルバニアとアナトリア半島の一部を獲得するというような形となった。自国領を奪われ、他民族の領土が渡される形となるギリシャは当然イギリスの政策を反対し、コンスタンティヌス一世はおろか親英であったヴェニゼロスまでもがイギリスに抗議した。結局ギリシャの強い抗議によりブカレスト再講和は白紙となり、ヴェニゼロスは参戦支持を一時的に撤回した。

 1915年2月、オスマン帝国領のダーダネルス海峡においてガリポリの戦い?が発生するとヴェニゼロスは参戦を強く主張したためコンスタンティヌス一世は参戦を一度認めたが軍参謀イオアニス・メタクサスがこれに抗議して辞任すると、あわてて国王は参戦を拒否した。国王の方針変更に納得のいかなかったヴェニゼロスは1915年3月6日、首相を辞任した。

 1915年6月に選挙が行われるとヴェニゼロス派が議会の過半数を超えたため、ヴェニゼロスは職務に復帰した。ヴェニゼロスはセルビア、及びブルガリアに互いに譲歩するように説得したが、国王コンスタンティヌス一世がドイツに対してギリシャが中立を保持することを保証したと考えられていたことや連合国がセルビア、ギリシャにブルガリアへ譲歩するよう圧力を強めていたことからヴェニゼロスの説得は失敗に終わった。9月にブルガリアが総動員を仕掛けるとギリシャも総動員を行うように国王に要求したが、国王は拒否した。これに対しヴェニゼロスは辞職を仄めかすしたため、国王も渋々同意したが、攻撃を仕掛ける気は毛頭なかった。しかし、ヴェニゼロスはギリシャにセルビア救援義務があるとして、イギリス、フランスを招いた上でさらに国王の承認を得た上でテッサロニキに軍を派遣したが、10月にブルガリアが参戦しても国王は攻撃することを認めず、さらには英仏軍がテッサロニキに上陸すると、ヴェニゼロスを罷免した。

 12月に選挙が行われたが、ヴェニゼロスは国王の憲法上の権利濫用を非難して選挙を放棄した。そのため、ヴェニゼロス派は前回の選挙の4分の1しか票を得る事ができなかった。一方、協商国と国王の率いる政府との関係も悪化しはじめ、1915年10月にテッサロニキに協商国が兵を置いてもギリシャは中立、翌年1月にコルフ島を占領しても中立のままであった。そしてセルビア軍の行軍を拒み、ブルガリア軍へマケドニアのルペルを引き渡したことでさらに関係は悪化した。

経過

ピレウス・アテネ上陸作戦?

 1916年8月11日、ヴェニゼロスを支持する共和派のギリシャ王国軍将校らは連合国軍の駐屯するテッサロニキで、未だ中立を維持する国王に対してクーデターを起こした。すぐさまテッサロニキにヴェニゼロスは入城し、共和派の臨時政府を設立。連合国はこれを支持してギリシャの内戦に介入した。これに対抗するためにギリシャ王国は14日に英仏に宣戦布告して大戦に同盟国側で参戦。共和国も17日にドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマンに宣戦布告して、ギリシャは連合国の干渉によって第一次世界大戦に巻き込まれた。12月17日、早急な占領を目指す連合軍はアテネ港湾の都市ピレウスに上陸を仕掛け、僅か半日でアテネを占領。コンスタンティヌス1世は北方のトリカラに逃亡した。連合軍はアテネ占領後、ペロポネソス半島に侵入して2月までに半島全土を掌握した。
 こうした劣勢的状況の中、同盟国軍はコンスタンティヌス1世救出のために戦略的重要目標であるテッサロニキの攻撃を立案した。指揮は東部戦線に配置されていたヒンデンブルクが執り、作戦は4月7日に始められることとなった。作戦通り4月7日、北部からドイツ軍が、東部からブルガリア軍が、テッサロニキに攻勢を仕掛けた。北部から攻撃を仕掛けるドイツ軍の右翼は9日、ヴァルダル川を渡ってテッサロニキ西部を抑え、ブルガリア軍左翼もホルティアティス山を超えて南部に回り込んで4月10日までにテッサロニキ包囲に成功した。テッサロニキ攻略戦は8月まで続き、23日にテッサロニキはドイツ・ブルガリア同盟軍の激しい攻撃によって陥落した。ヴェニゼロスはドイツ軍によって逮捕され、共和派のギリシャ軍将校も多くが捕虜となった。テッサロニキを失った英仏連合軍は戦意を失い次第に形勢は逆転した。

クレタ島の戦い?と終戦へ

 時を同じくして連合国は、ロシアとイタリアの革命による戦線離脱や中東方面での敗北という危機的状況に陥り、ギリシャへの戦力派遣について連合国軍総司令部は見直しを諮った。年を跨いで3月8日、アテネ北部に到達した同盟国軍から逃げるように連合国軍はアテネを放棄してギリシャ本土から撤退を完了した。2日後の10日に同盟国軍はアテネに入城してコンスタンティヌス1世は再びアテネに返り咲いた。フランス軍はこの時すでにギリシャへの軍派遣を取りやめイギリス軍も半数以上がエジプトや西部戦線に移動し、残りはクレタ島に立て篭もった。

 5月に入るとギリシャ軍部はクレタ島からイギリス軍を排除しようと考え、同盟国軍を交えずにクレタ島奪還に着手した。しかし、6月20日にエーゲ海にてギリシャ海軍は補給艦を護衛するイギリス海軍と接敵し、大敗。一時は制海権を失う結果となり、ドイツ軍は激怒した。同盟国軍との関係悪化によりギリシャ王国は、7月11日から行われたプリシュティナ講和会議でドイツやブルガリア、オーストリア、オスマンの要求を全て認め、ギリシャは北部の南ルメリア地域を全て失った。これによってギリシャ世論は大きく共和派に傾いたがドイツ軍の憲兵隊によってその全てはすぐに鎮圧された。

 8月8日から行われた同盟国軍共同によるクレタ島攻略作戦も無理矢理な突破によって大きな損害を出しながら最終的に失敗。ついにはクレタ島奪還が叶うことはなかった。こうしてギリシャ内戦はヴェニゼロスの共和派降伏宣言によって9月23日に終戦しギリシャにおける全ての戦争行為は終了した。

戦後

 内戦後、ヴェニゼロスは国家転覆罪によって処刑されることとなったが、駐留ドイツ軍の指示によって減刑された。ギリシャ内戦の講和会議はスパルティで開かれた。しかし肝心のドイツとオーストリアは革命によってこの会談に参加せず、会議はブルガリアが進行をした。この会議でブルガリアは戦争功労が認められ、ギリシャからテッサロニキを含む南ルメリア地方を割譲。ギリシャは国の少なくない重要地域を失った。またクレタ島はイギリス軍による駐屯が認めながらもギリシャに返還されたが、オスマン帝国が帰属を要求し、ブルガリアもこれを支持したことでクレタ島はギリシャ、オスマンによる分割統治されることとなった。以上の内容でスパルティ条約が締結された。この屈辱的な条約が施行された結果、コンスタンティヌス1世は責任を感じて、退位し、王太子であるゲオルギオス1世が即位した。しかしゲオルギオス1世は庶民との結婚を強引に決めた結果駆け落ち、ギリシャ王位はなんども変わったことで政権は安定せず結局ヴェニゼロスが実権を握ることとなった。

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