第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

インド大反乱
イギリス軍によって破壊されたデリー
詳細情報
発生1918年11月5日
指導者クリシュナ・ラージャ4世
マハトマ・ガンディー
プラタープ・シング
M. N.ロイ
目的民族主義、インド革命
対象イギリス王国?イギリス領インド帝国?
結果反乱の成功、イギリス領インド帝国?の縮小、ムンバイ協定?の締結
発生地デリー
第二次インド大反乱とは大戦後期の1918年11月5日、イギリス領インド帝国の崩壊とインド民族国家の建国を目指してイギリスに対して勃発した大規模な反乱である。1920年6月3日にムンバイ協定?が結ばれたことによって集結した。

背景

 第一次世界大戦が始まるとイギリスは総力戦の遂行のために植民地の力を欲していた。1917年モンタギュー宣言?でインドの戦争協力とその代わりに自治を約束した。しかし同様の約束があった中東では1918年1月のアレッポ会議?を経てイギリス軍の三枚舌外交が発覚し、イギリスのアラブ大反乱?という目論見は失敗した。インド国民会議のバール・ガンガーダル・ティラクはイギリスの外交に信用がないと確認し、モンタギュー宣言が嘘であると考えた。ベナント夫人らコラボリスト(対印協力者)はインドの独立にはイギリス勢力の排除が必要と考えた。3月5日にシク教とカシミール藩王国のプラタープ・シングが非協力運動を開始するとイギリス領インド軍はシク藩王国へ攻撃を始めた(第三次シク戦争)。軍が非正規であることや、兵士に同民族への攻撃に抵抗があったこと、日本遠征軍の参加がなかつたことなどから第三次シク戦争はカシミール藩王国が勝利した。プラタープ・シングは戦争勝利後にカシミール王国を成立させてイギリスの庇護から逃れた。こうした北部での動きにインド人の反英感情とナショナリズムは高騰し、マイソール藩王国のクリシュナ・ラージャ4世が1918年11月5日にマイソール王国の建国を宣言してイギリス勢力を追放した。こうして第二次インド大反乱が勃発した。

経過

 11月8日にクリシュナ・ラージャ4世はイギリス人高官3人を殺害した。マイソール軍はデリーに進軍し、イギリス領インド軍を撃退した。しかしイギリス本軍が11月10日に到着すると12日にクリシュナ・ラージャ4世は戦死した。正規軍の到着にインド人の誰もが反乱の失敗を感じたが弟のナラシンハ・ラージャ1世としてマイソールのマハーラージャに即位して徹底抗戦を表明した。
 11月20日、インド蜂起を知ったバハードゥル・シャー2世の孫であるバハードゥル・シャー3世が追放先のラングーンからデリーに帰還して30日にパードシャーに即位した。ムガル帝国が復活すると反乱は一層激化した。12月2日にイギリス軍がデリーを包囲するとマラーター王国の旧ペーシュワー、ナーナー・サーヒブの子のカデーヒル・サーヒブの指揮する軍が後方から突いた。1ヶ月間の激しい戦闘の末デリーからイギリス軍は敗走した。バハードゥル・シャー3世はカデーヒル・サーヒブをマラーターのマハーラージャに命じた。
 1919年1月25日、ヴェルサイユ革命に乗じてインド国民会議はパトナーで蜂起した。国民会議はさらに28日にゴウハディで、30日にプリーで蜂起した。その後パトナーの政府は2月10日にプリーの政府と合併してヒンドスタン共和国を建国した。反乱は全国に波及し2月12日にアーガー・ハーン3世がダッカでバングラデシュ共和国を、13日にイスラマバードでムハンマド・アリー・ジンナーがイスラマバード共和国を、14日にM. N.ロイがインドールでインド社会共和国を建国した。

結果

 1920年にはイギリスはこれらのインド勢力の独立を認めざるを得ない状態となった。同年1月にイギリスは特使をインド最後のイギリス植民地ムンバイに派遣した。イギリス特使は独立した勢力の正式な独立を認め、残るイギリス領での現地法制定を余儀なくされた。さらにインドにおける多くの利権を現地人に返還する1920年法?の制定、インド人徴兵義務の撤廃を認めた。こうしてインド側の要求がほぼ通ったムンバイ協定?が6月3日に締結された。イギリスは最低限の植民地を保持することが出来たがあまりにも多くの損害が生じた。イギリス世論はインド統治法の終了に不満をあらわにした。
 しかしインド側にも新たな問題が生じた。この会談のインド側代表であるバハードゥル・シャー3世はかつてのムガル帝国復興という野心を持っていた。インド人世論ではガンディーを支持する声が多く封建制の復活に反対する声もあった。また、マラーター王国では旧王国のぺーシュワー、カデーヒル・サーヒブをマラーターのマハーラージャに任じたことは現王シャーフーをなきものとして考えられたものだった。当然シャーフーは激怒しバハードゥルに自分をマハーラージャにするよう迫った。シャーフーはその場の口約束でそれを了承した。しかしそれが公に発表されることは無かった。こうしたムガル帝国の野心的政策は新たな火種を呼び起こした。

影響

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