第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

大戦三大布告とは、第一次世界大戦中に布告が行われ、特に大戦後の各国の政治体制に影響を与えた布告又は宣言の総称。ソビエトのレーニンによるペトログラード布告?、アメリカのウィルソンによるワシントン布告?、オーストリアのカール1世によるザンクトペルテン布告?の三つの布告を表す。

前史

 第一次世界大戦は様々な原因の積み重なりによって勃発したとされる。例えばオスマン帝国のバルカン支配はとても複雑なバルカンの民族問題を生じさせて、結果的にボスニア危機?7月最後通牒を起こした。またイギリスのハーバート・ヘンリー・アスキス首相とドイツのティルピッツ海軍大臣による独英建艦戦争?は独英間の対立を生み、これは結果的に無制限潜水艦作戦の実施に影響した。
 こうした要因が積み重なった結果、第一次世界大戦が勃発し多くの人間が死亡した。民間の被害も少なくなく、スペイン風邪やかぶらの冬なども相まって戦前の君主制は一気に崩壊する結果となった。

経過

ロシア革命によるソビエトの布告

こうした君主制に対する批判運動は1905年革命で既に王政批判が激しいロシアでは1917年3月8日に二月革命?が勃発。これを発端に欧州では1917年後半から1919年後半にかけてストライキ運動や革命運動などの労働者や兵士による新体制を求める機運が高まった。とりわけ同年11月に起こった十月革命では、世界初の共産主義国家であるロシア連邦社会主義ソビエト共和国が成立した。首相にあたる、初代人民委員会議長のレーニンは戦争反対を掲げて民衆からの支持を獲得し、十月革命の成功とともに権力を掌握した。レーニンは権力掌握後すぐに『平和に関する布告』、いわゆるペトログラード布告?を宣言した。この布告は戦争の全ての交戦国に対して無併合・無賠償の講和を提議した。一方でレーニンは従来の法律を無視して、裁判は人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導した。このレーニンの布告は広く民間人には指示されたものの戦争交戦国は無視し、結局あまり効果はなかった。

ウィルソンの十四か条の平和原則

無制限潜水艦作戦の影響によってアメリカは1917年4月6日に大戦に介入し、その圧倒的な工業力と軍事力をもって中央同盟国を劣勢に追い込んだ。ツィンメルマン電報事件を発端とする世論操作に成功したウィルソン大統領はナショナリズム運動を煽って労働運動や反戦運動を弾圧した。ウィルソンは大戦によって欧州から覇権を奪うことを既に考えており、日英同盟に対抗する手段として米仏同盟の成立を望んでいた。しかしそれは第二次世界大戦を起こしてしまう恐れがあり、非常にリスクだった。そのためウィルソンは国際連盟の設立によって世界的な枠組みを作り、世界の紛争問題を国際的に解決するべきだとして『十四か条の平和原則』、いわゆるワシントン布告?を発表して、国際世論に訴えた。中でもこの条文にある民族自決は、本来の目標である、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンの崩壊だけでなく植民地体制への批判を集めてしまい、アフリカの独立運動を活発化させてしまった。また過度な弾圧政策によって共和党は政府を大々的に批判し、アメリカ社会党やアメリカ共産党の台頭を許し最終的にユージン・V・デブスによるアトランタ革命?によってアメリカ合衆国は1921年に崩壊した。ウィルソン率いる合衆国派は、共和党率いるアメリカ連合国に追いやられ、また西部では右翼によるアメリカ共和国の成立によって中部の奥地に領土を持った。こうしてインディアナ合衆国が1921年の9月に建国された。

カール1世らの改革

イタリア戦線でボローニャ休戦協定を締結してイタリアを大戦から離脱させたオーストリア=ハンガリー帝国だったが、既に帝国は崩壊を始めていた。カール1世は熱狂的なドナウ連邦支持者でハンガリー貴族などを無視しながら急進的な改革を進めた。中でも右派のティサ・イシュトヴァーンはカール1世の改革に全面的に反対し、エルネスト・フォン・ケルバーやシュテファン・ブリアンなどの改革派と対立した。こうしてオーストリアはハンガリーと対立し、改革派はチェコスロバキアやクロアチア、セルビアの要人らと会談を行うようになっていた。カール1世とヴィルヘルム2世の不仲によってドイツとの対立が激化した中、9月5日にカール1世はザンクトペルテンにて、『一時休戦に関する布告』、いわゆるザンクトペルテン布告?を宣言し、一旦の停戦を各国に呼びかけた。ドイツやオスマンにとってはこの布告は受けいられなかったものの、イギリスやブルガリアはこの布告に関心を示した。ブルガリアは15日フェルディナンド1世が退位を突然宣言して、長男のボリス3世が即位した。改革派であったボリス3世はザンクトペルテン布告を支持する等の内容のカバラ宣言を行って、オーストリアの停戦運動を支持した。しかし停戦運動は広がらず、戦争は未だに終わらなかった。そのまま、そんな中1918年10月18日にチェコスロバキア独立宣言がトマーシュ・マサリクによって行われ、28日にチェコスロバキアは独立した。しかし事前にチェコスロバキアの現地要人であるカレル・クラマーシュと会談を行っていたオーストリアはチェコスロバキアとの同盟を維持しながら独立を承認することに成功した。チェコスロバキアの独立に承認する旨の宣言に対してハンガリー貴族は激怒した。こうして10月30日にティサ・イシュトヴァーンがハンガリー王国の独立を宣言。兵を率いてウィーンへ行進を始めたため、これをきっかけにカール1世はクーデターを起こし、政府からハンガリー派を排除した。こうしてオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。この崩壊によって連合国諸国はクロアチア人などがオーストリアに対して反抗すると考えていたがオーストリアは事前にクロアチアとセルビアとグラーツ協定を結んで独立を支持、治安維持や援助などによって同盟をこぎ着けた。このようなカール1世の策に連合国は完全に乗ってしまいオーストリアは帝国の崩壊を代償に戦争継続を行うことに成功した。ハンガリー支配下であったクロアチアが独立したことでハンガリー海軍はオーストリア海軍に接収されティサもブダペストへ帰還せざるをえなかったため、ハンガリーは侵攻をやめて自国領へ帰って行った。このようにしてオーストリア革命は成功し、オーストリア帝国が成立。バルカンの民族問題の一旦安定化に成功した。

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