第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

ヴェルサイユ革命及びその余波による全ての軍事行為の停戦に関する諸協定
詳細情報
締結1923年4月8日
関連ヴェルサイユ革命フランス内戦
締約国フランス第四共和政フランス第三共和政?スペイン王国?
場所マルタ?
結果フランス内戦の終結、ヨーロッパ枢軸共同体?の設立
マルタ停戦協定とは第一次世界大戦末期に発生したヴェルサイユ革命の余波によって勃発したフランス内戦の戦後処理を行うためにマルタで締結された協定である。

経過

1920年、モンペリエ撤退?マルセイユの戦い?の戦いにより戦略的に敗北した旧政府軍はフランス本土から旧政府を駆逐することには成功したが戦略目標であるポアンカレ大統領拘束に失敗した。ポアンカレ大統領は逃亡先のアルジェで1921年6月17日、徹底抗戦を表明、国際的に援助を求めた。これによりフランス本土の革命派に否定的な南部のトゥールーズ、モンペリエ、マルセイユではストライキが発生。中でも旧ベルギー地域のシャルルロワでは25日に市民が一揆を行うなど、新政府はレジスタンスへの対処に追われた。新政府軍のレジスタンス対応のために旧政府中枢関係者のほとんどはアンドラやモナコ、イタリアへの脱出に成功した。旧政府関係者が国内に逃亡したことは当事国はそれほど長くない時間で特定出来たが、新政府の急進的な改革と革命の影響を恐れる近隣諸国は水面下で旧政府への支援を度々行った。その結果フランスは1922年1月7日に、モナコに奇襲をしかけて占領、1月10日にアンドラも占領した。いずれの占領計画も宣戦布告なしだったためフランス第四共和政は世界から孤立した。2月9日、コゼンツァ停戦協定がシチリア側の更新中止により失効したことで、イタリア内戦?が再開された。イタリア王国は再度軍を南方に派遣せざるを得なかった為、仏伊国境は薄くなっていた。15日にエルバ島事件が発生し、フランスは対伊宣戦を主張し、20日にサンレモに侵攻してフランスはイタリアに宣戦布告した。結果的に5月12日にオーストリアの仲介によって休戦協定が成立し、ジェノヴァ休戦協定?が締結された。このオーストリアやイギリスなどの中距離諸国による宥和政策?はフランスの更なる躍進を許してしまった。また6月11日に、スペインの政情不安が最高潮に達したことにより、フランスはスペインに扇動家を派遣して蜂起させた。こうして7月5日にバルセロナを中心にカルリスタが蜂起したことによってフランスはすぐさま介入、スペイン内戦?を引き起こした。フランスはこれにより自国の周辺に二つの衛星国を建国することに成功した。こうしてヴェルサイユ革命戦争は地中海情勢を大きく揺らし、近隣諸国の民族運動を活発化させた。しかし肝心なポアンカレ大統領の逮捕は達成できずコルシカ島も旧政府派に落ちたままだった。陸戦においては強力なフランス軍であったが、貧弱な海軍ではもうどうすることもできず、フランス領西アフリカの奪還はもはや不可能に近かった。ついに2022年12月25日に決行されたクリスマス作戦は完全に失敗し、首脳部もどうすることもできず、国民の戦争疲弊も限界に達したため休戦交渉に取り掛かった。この情報はイタリアでスパイ活動を拡大させつつあるオーストリア政府に露見し、オーストリア帝国はフランス内戦の調停に名乗りをあげ、新体制派は了承。旧体制派もしぶしぶ了承し、2023年1月3日にこの講和会議はオーストリア占領下のマルタにて実現した。
第四共和政の外交団代表であるフェルディナン元帥はかつての上司であり、今回の会談での第三共和政の外交団代表であるポアンカレ大統領に握手を求めたがポアンカレは握手を拒否した。一方オーストリア帝国外相シュテファン・ブリアンは第三共和政の二ヴェル外相はパンテッレリーア島で会談を行った。この密談では拡張政策を進めるフランス第四共和政に対して嫌悪感を示すオーストリアと内部抗争で実質的に敗北した第三共和政とで利害が一致し、カール1世の大々的な支持もあったため、密約が結ばれた。この墺仏同盟?は今後、大陸政策の基調として一端を担った。表向きでの会談であるマルタ会談は、犬猿の仲とも言えるほどの仲の悪さでオーストリアのカール1世も手を焼いた。まずオーストリアはフランスとの一対一での会談は不可能であると考え、スペインの外交団を招待した。スペインはフランスからの侵攻によって政界は完全に混乱し、経済依存を強めるオーストリアの要求に拒否せざるをえなかった。スペインを操り人形にしたオーストリアは表面上の和解という形でスペインにカタルーニャ地方の請求権放棄を約束させ、第四共和政の機嫌を取った。この時オーストリアは第三共和政にもスペイン地方での第四共和政の支配もほぼ強制的に認めさせた。次にイタリア地方での領土問題ではオーストリアの影響下であるヴェネツィアがフランスの影響下にあるサルデーニャ側に譲歩する形でイタリア北部の分割を取り決めた。但しこの時イタリアの外交団は招待されなかった。またアンドラやモナコに関しても外交団は招待されずオーストリアの勝手な外交によって南部欧州は列強によって分割された。自身の影響圏を保障させたフランスは最初の目標である停戦も旧体制派と織あってついに4月8日にマルタ停戦協定が成立した。こうしてフランス内戦を含めてフランスは9年にも及ぶ大戦が終結した。

影響

このマルタ会談により南欧ではアンドラ、モナコ、サンマリノが消滅し、イタリアは国土の半分、スペインは国土の四分の一を失い、表面上、オーストリアとフランスによる覇権が確定した。さらに停戦協定によってフランス内戦は終結し、戦乱の時代は終わりを告げる。しかしフランスはナシオン・フランセーズに国名を変更。国家主義による体制を築きあげ、自身の影響下のサルデーニャ社会共和国とカタルーニャ共和国とドイツ方面で支援するライン連邦共和国と新たな陣営ヨーロッパ枢軸共同体?を設立した。この陣営は翌年スラブ・ルーシ帝国?スコットランド摂政王国?が加盟し西欧の覇権を握った。これに対してフランスはラテン協商を、オーストリアは帝国協定を設立。墺仏同盟は墺仏協商協定へと発展。オーストリアと敵対するブルガリアがナシオン・フランセーズに接近する形で新たな対立構想が生まれた。

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