第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

東京維新
詳細情報
発生1920年2月12日
目的憲政派の打倒、女性参政権の導入、戦争放棄、尊皇
対象大日本帝国?、大隈重信、憲政会?
結果大和皇国?の建国、植民地の喪失
発生地東京
東京維新とは大戦末期の1920年2月12日、大日本帝国の首都東京で起きた東京事変を発端とする、日本の革命運動

背景

第一次世界大戦、日英同盟を理由に参戦するべきと主張した大隈重信ら憲政派は山縣や原ら立憲派に対して強行に参戦を始め、第一次世界大戦に連合国側で参戦した。この大隈の行動に対して立憲派は立憲国民会を立ち上げ、1915年の初頭には与党である憲政会と野党である立憲国民会が対立する二大政党制が始まった*1。極東方面においてドイツ関連施設を次々と占領する戦いぶりを見せたが、その戦果が上がっていくのと同時に米英からの不信感は増大した。青島や南洋諸島などドイツの重要拠点を占領した帝国軍はさらなる利権確保のために、欧州戦線に参戦しようとしていた。この日本の要求に当初英国は却下していたが、1916年、ガリポリの戦いでまさかの敗北を決し、状況は最悪で、また1917年ロシア革命によって東部戦線が消滅し、なおかつフランス・イタリア連合軍も疲弊仕切っているという状況でフランスやセルビアは日本を頼らざるをえなかった。こうして1917年5月、日英米仏の連合軍によりようやくメソポタミア全域を占領するに至った。しかしメソポタミア占領の束の間、オスマン帝国はアラブ人やクルド人との講和を図り、メルスィン協定により両民族は対オスマンの争いを辞めた。その後に彼らはイギリスの三枚舌外交に気づいて大激怒しこの連合軍に妨害をしかけてきた。バグダード蜂起やベイルート蜂起により連合軍は補給枯渇やゲリラ戦に見舞われ7ヶ月後の12月、日本は中東より撤退した。中東での失敗より少し前の11月大隈は選挙を一時停止し、帝国議会の保留を始めた。そうして与党がシベリア出兵を強行採決で決定し、ウラジオストクの占領を計画し始めた。こうした背景から中東からの撤退が首脳部に伝わったころにはもう時は既に遅かった。さらに不運なことに北陸地方から始まった米騒動は一層過激に東日本を中心に全国へ広まった。大隈は責任を取って辞任し、後任に加藤高明を指名した。次期内閣総理大臣を指名により決定するのは明治憲法下で初であった。

経過

影響

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