第一次世界大戦が終結しなかった世界線の歴史wikiです。

サルデーニャ侵攻
モナコに進駐するフランス北軍
詳細情報
戦争サルデーニャ戦争
年月1922年2月2日〜
場所北イタリア地方
結果イタリア王国?の権威失墜
サルデーニャ社会共和国?の建国
フランス第三共和政?の逃亡
リビア侵攻?
交戦勢力
ナシオン・フランセーズイタリア王国?
フランス第三共和政?
指導者、指揮官
ジャック・ドリオレイモン・ポアンカレ
戦力
1,200,00060,000
20,000
伊仏戦争
エルバ島事件リボルノ事件?モナコ進駐?サンレモ包囲戦?トリノの戦い?ジェノバの戦い?ミラノ包囲戦?ジェノバ休戦協定?サルデーニャ独立宣言?

サルデーニャ侵攻とは、ナシオン・フランセーズ軍による大規模な北イタリアへの侵攻作戦である。別名チェック作戦。

背景

 ライプツィヒ休戦協定により、ナシオン・フランセーズはドイツ国境部における処理を完了させ、北部に絶対領土を確立した。これにより北の新体制派と南の旧体制派とでフランスは南北に分裂し、本格的な内戦へと突入した。*1さらに北方で磐石な体制を築こうとした北軍はリールでオランダと会談し、リール国境確定条約を結んでベルギーの分割によって北部を安泰なものとした。一気に国内外の問題を処理した北軍はフランス人民の支持を受けて、南へ快進撃を続けた。

 続いて北軍は地中海の制海権を得ようとしたが、フランスの主な海軍は自沈するか、南軍の手に渡っていた。こうした背景によってフランス内戦は膠着状態となった。マルセイユから撤退する南軍は北軍の猛攻によって散り散りとなり、一部は隣国のイタリア王国に亡命した。これは対仏を考えていたオーストリアの裏での手引きがあったとされる。フランス北軍はこれを名目にイタリアへ侵攻する計画を立案していた。

経過

 1月にコルシカ島の制圧に失敗する北軍の海軍は更なる計画を立案していた。北軍政府はエルバ島への海軍の寄港をイタリア政府へ求めたがイタリアは拒否、イタリア軍は北仏軍艦に警告射撃を行ったため北軍はこれを口実に2月2日にエルバ島の制圧を敢行した。イタリア政府は早急な撤退を求めたが北軍は10日になっても撤退しなかった。そんな中13日にイタリアのリボルノでフランス南軍の残党がアルジェ政府とは別の後継政府(新生フランス)を設立する事件が起きた。これを口実にフランス北軍はリボルノに軍を派遣した。これを戦争と捉えたイタリア政府はオーストリアに保護を求めたが、戦費の予算が目処を立たず、また軍の大半がバルカン半島に進駐していたため参戦に至らなかった。20日にイタリア軍が西方に軍を割くと、21日にシチリア軍は国境に配置され圧力をかけた。25日、フランス北軍はモナコに進駐し、その日中に編入を宣言、モナコ公アルベール1世はアルジェに亡命した。26日にフランス北軍は国境の突出部からサンレモを迂回するように海岸を目指して進軍を開始、28日にサンレモの後方のインペリアが占領されると、29日から全方向から一斉にサンレモへの攻撃が始まった(サンレモ包囲戦?)。

 2月7日にサンレモは陥落し、ジュネーブに進駐するフランス北軍はトリノに向かって進軍した。イタリア軍はたいした抵抗も出来ずにジェノバ—トリノ線まで撤退した。西方の敗戦を受けて政府はファシスト党への政権交代をせざるを得ない状況となり13日にイヴァノエ・ボノーミ内閣は退陣しベニート・ムッソリーニが代わりに首相に就任した。ムッソリーニは南方の軍を北に移動させた。15日にイタリア軍は演習と称してサンマリノ領に侵入し、16日に占領を宣言した。西方では25日にフランス北軍がトリノ攻撃を始めた。ムッソリーニはトリノに軍を集中させた。しかしフランス北軍の勢いにイタリア軍は総崩れし、トリノは壮絶な戦いのすえに3月11日に陥落した。兵力の3割を失ったイタリア軍は自国軍のみでの抵抗力を完全に失った。15日にイタリアはオーストリアに再度参戦を要請するもオーストリアは拒否、イタリアはフランス北軍に講和を求めるしかなかった。

戦後

関連

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

開くメニュー

閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

メンバーのみ編集できます