ピアスツキの解放と同時期にパリの
ポーランド国民委員会?メンバーである
イグナシー・パデレフスキ?は革命期の混乱をついてドイツを通って11月16日にポズナンを訪れて演説をした。パデレフスキの演説に感化されたポズナンのポーランド人は蜂起を開始した。
しかしポーランド革命家の中でも親ユダヤで米仏との協調を主張するパデレフスキ、ポーランド・リトアニアの再興を目指すピウスツキ、反ユダヤ的でポーランド単一国家の理想を掲げる
ロマン・ドモフスキ?は互いに対立した。政敵の排除を画策したピウスツキはオーストリアと協調することで、強固な後ろ盾を得ようとした。ピウスツキの配下であった
ポーランド軍事組織?はポズナンでの蜂起に参加せず消極的な革命を遂行した。蜂起の前よりポズナンのポーランド人組織の重鎮だった
スタニスワフ・タチャク?と
ユゼフ・ダウボル=ムシニツキ?も社会主義を脅威と考えたためにピウスツキに賛同した。
ポズナン蜂起?はオーデル川以東のドイツ領でのポーランド人のナショナリズムを高揚させ、これは11月下旬までに上シレジアを中心とした
上シレジア蜂起?の発生に影響した。蜂起を主導した
ヴォイチェフ・コルファンティ?はドイツ化に対抗して多くのドイツ人を迫害したことで独墺との外交関係を悪化させピウスツキと対立することになった。
上シレジア蜂起以降ポズナンでの蜂起はピウスツキの政界工作やドイツ正規軍、
プロイセン植民委員会?の粘り強い反撃にあって上手く進行できなかった。12月2日に
ヨーゼフ・アウグスト?指揮下のオーストリア軍が治安維持とドイツ人保護を名目にチェコ・ドイツ国境を越境してシュレージエン侵攻を開始した。オーストリア軍は5日までにカトヴィッツを占領すると上シレジアだけでなく10日には下シレジアにも展開するようになった。
オーストリア軍の介入によってシレジア地方での蜂起は失敗に終わり、さらにドイツ軍によってポズナンでの蜂起も失敗した。コルファンティはドイツ人に対するジェノサイドで指名手配を受け12月18日に逮捕された。