ウィーンクーデター後にオーストリアでは復員による需要の増加によって慢性的なインフレに陥った。経済の低迷はかさんだ返済軍事費と相まって帝国の財政を圧迫した。当面の金融危機は緊縮財政によって収まりつつ合った。緊縮財政は軍事費の縮小も範疇の外ではなかったため、オーストリアは積極的に軍事介入する力を失った。
革命期における動乱はオーストリアの隣国に波及しており、1918年12月ドイツ軍の撤退に端を発したソビエトによるウクライナ侵攻はオーストリアの生命線ともよべる東欧を揺るがす行為であった。経済難によって軍事力を使えないオーストリアは外交によって諸問題を解決しようと試み、リガ会議を開いた。会議では領土的野心を秘めるポーランドと対立したが、
ミンダウガス事件を引き起こしてバルとを統合してポーランド・リトアニア合同を阻止した。
東方戦争は同盟側の辛勝に終わったがポーランドに外交的敗北を喫し東欧における権威を少なからず失った。
また同年11月に
ロズニツァ条約の穴を突いて発生した
第一次ユーゴスラビア紛争の発生は残留オーストリア軍に影響を与えバルカンの対立を激化させた。オーストリアは
ブドヴァ事件の経緯からクロアチアを支援したが、紛争は泥沼化した。オーストリアはブルガリア、オスマンと共同で
サラエボ裁定?を執り行い紛争を休戦させ、クロアチアとセルビアの境界を決裁したが、ムスリム人の反乱によって紛争の終結は叶わなかった。
19年4月には隣国
ハンガリー評議会共和国?がドイツ軍が撤退したワラキアに侵攻して
第三次バルカン戦争が発生し、オーストリアもその対応に追われた。結果的に戦争はブルガリアの活躍によってハンガリー劣勢に推移し、第三次バルカン戦争及び
第二次ユーゴスラビア紛争での問題からオーストリアはブルガリアと融和し均衡体制を敷くことになった。