カール1世は戦争を休戦させるためにザンクトペルテン布告を行った。この布告はイギリスやブルガリアの関心を引いたが、あまり効果はなかった。1918年10月3日、突如カール1世は議会で連邦制移行宣言を行い、新たな連邦には
エルネスト・フォン・ケルバー?が首相として、
シュテファン・ブリアンが外相として、内閣が作られることとなった。
保守派ハンガリー人議員が軒並み行政から排除された結果
ティサ・イシュトヴァーン?はオーストリアのこの決定を無視し、その上で自らを首相としてハンガリー王国の独立を匂わせた。このハンガリーの動きに対して、カール1世ら改革派はチェコの
カレル・クラマーシュ?と密談を行い、チェコとスロバキアの独立を約束した。しかしこれは18日に
トマーシュ・マサリク?がアメリカで
チェコスロバキア独立宣言?を行ったために多少困難を極めた。予定とは少し違うが28日に
チェコスロバキア?は
プラハ宣言?によって独立し、オーストリア=ハンガリー帝国から脱退した。25日にはカール1世はクロアチア人の
スラヴコ・クヴァテルニク?と
グラーツ協定を結んでクロアチアの独立を約束した。またロズニツァでペータル1世と会談を行い新生セルビアであるユーゴスラビアの建国とセルビア人の完全自治を認めた(
ロズニツァ条約)。
こうしてオーストリアはチェコスロバキア、クロアチア、セルビアと関係を築きながら戦争遂行力を保持した。そうして28日にカール1世とその近衛兵は議会を占拠、反対派のハンガリー人やユダヤ人を議会から追放した(
ウィーンクーデター?)。激怒したティサはブダペストで
ハンガリー独立宣言?を行い、その日中にオーストリアに宣戦布告した。こうしてハンガリーが連邦から脱退したことによってオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊。カール1世はハンガリー王位を放棄したため30日にオーストリア帝国が成立した。翌日にはプラハでオーストリア、チェコ、スロバキア、クロアチア、セルビアの代表が集まって、各国がオーストリアを主導国とする陣営である
帝国協定?に参加する形でドナウ諸国はまとまった。オーストリアは11月3日に革命が激化するドイツとの同盟を破棄。連合国に対して無条件休戦を訴えた。