ラーダ政府は社会主義寄りの政策をとり、革命以前に有力者が所有していた農地は農民に分配された。しかしヘーチマン政権は社会主義の否定と帝国時代の復興を掲げ、農民から土地を没収し、一度国家に帰属させた上で支持基盤のブルジョワ層に分配した。しかしこのような反動政治は長続きしなかった。
ヘーチマンはウクライナの大部分を占めるプロレタリア民衆からの支持は既に無く、ドイツの強大な軍事力とブルジョワ層の抑圧を背景にウクライナを支配した。ドイツ軍は軍事力と引き換えにウクライナの食料を供給させていたが、不満を募らせた農民はストライキを起こしドイツ軍の補給に抵抗した。さらにキエフ軍集団司令官の
アイヒホルン?元帥が左派革命家のボリス・ドンスコイに襲撃される事件が発生すると、ドイツ軍はヘーチマンの実権を完全に掌握して全土に進駐した。
ウクライナの民族革命運動は最高潮に達したが、西部戦線でドイツ軍が敗北すると、東部方面部隊は本国に撤収した。ドイツ軍が撤収すると、
一二・三クーデターによってシモン・ペトリューラ率いるディレクトーリヤ政府がキエフを占領するとスコロパードシクィイは逮捕された。ペトリューラは12月4日にヘーチマンの打倒を宣言し、国号をウクライナ人民共和国に戻した。
ウクライナはこれ以降農民の支持を基盤にディレクトーリヤが政権を担っていくことになるが軍事力は疲弊し、旧黒海艦隊の海軍は英仏によって接収され、後にピョートル・ヴラーンゲリらのメンシェヴィキに引き渡された。